2012年9月9日日曜日

1986年5月25日のコラム(藤原一生先生)

藤原一生先生の紹介記事です。

今回の講演の中に出てくる朝日新聞のコラム(記事)を紹介します。

人・味と出合う
ソウメン 初めて家族の愛を実感

 昭和21年秋、荻窪のキリスト教会。書店に勤めていた藤原さんは、焼け残った礼拝堂で結婚式を挙げた。22歳だった。1歳年下の妻とは勤め先が同じビルにあり、かいわいで評判の美人だった。ほっておいたら進駐軍に取られてしまう、と猛然と攻めた成果だった。
 式がすんで、牧師の家で20人足らずの参列者と披露宴になった。テーブルには、黒々としたソウメンが運ばれた。牧師夫人が前日、やみ市で手に入れてきた。
 「海草を原料にしたソウメンでした。食糧難の当時としては大変なごちそうだった。しかし、私にはそれ以上の意味があったんです。実はそれまで家族と食卓を囲んだ警官がなかった。黒いソウメンは、家庭の味の出発点でした」
 藤原さんは少年時代を深川で過ごした。食事の記憶はスラム街の一昭(ぜん)飯屋。出稼ぎの日雇い労働者や行商人らでごった返す店の片隅で、ひとりで麦飯をかき込んだ。「たまに見かねた大人がおかずを分けてくれましたよ」
 小学四年生のとき、藤原少年は近くの教会に預けられた。当時の牧師はこう語る。
 見るからに栄養不良で、頭ばかり大きな、暗い目をした子でした。物心もつかないうちに両親が離婚。酒ぐせの悪い父に手をひかれ、転々と流浪を重ねて東京のどん底に落ちて来たという話だった。父親が酒の上の過ちで警察に引かれて行ったため引き取ったが、すき腹を抱えてひとり木貸宿や路地で育っていた。うそや盗みの知恵を身につけて、しかられても涙を流さない子になっていた。
 藤原少年はある日、牧師の机から小銭を盗んで逃げた。気づいた牧師は少年を見つけ出して教会に連れ帰ったが、しからずに少年を横に置いてただ祈り続けた。涙のためた牧師の目を見て、少年は初めて孤独から解放された。後年この体験をもとに書いた童話「あかい目ーぼくのイエスさま」はロングセラーになった。
 まもなく父親の元に帰ったものの、暮らし向きは相変わらず。小学校を卒業すると印刷所へ住み込みで就職した。
 昭和19年秋に陸軍に入隊し、中国大陸へ。
 食事時になると、新兵の藤原二等兵は、数十人のみそ汁の入ったたるを天びん棒で担いだ。ずっしりと肩に食い込む。よろける。こぼしでもしたら大変である。それでなくても古参兵から鉄拳(てっけん)制裁の毎日だった。
 みそ汁の貝は毎食決まってナスだった。戦況は悪化の一途、ナスしか入手できなかった。なぜか腐ったようなにおい。胸がむかつくが、逃げられない。軍隊のにおいそのものだった。
 昭和20年12月復員するやいなや、9ヶ月前の東京大空襲で行方不明となっていた父を捜した。三日間、下町を歩き回ったあげく、公園の一角に仮埋葬された父と再会した。
 「親らしいことは何ひとつしてくれなかったおやじだったんですがね、、、。こういう感情は説明がつきませんね」
 結婚して男の子が二人生まれた。田無市北原二丁目に住む。妻の料理は、ナスみそ汁以外、すべておいしい。家族そろった食卓で、ときどきわけもなく涙がこぼれてきて、はしが止まる。


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