2013年2月8日金曜日

講演会に配布した資料(共同通信社より)

藤原一生先生の講演会に配布した資料です。↓

共同通信社より各社へ(北海道〜九州・・大分・信濃毎日・山梨日日点河北新報など)昭和60年8月末

「時の顔」

 日本けん玉協会がこのほど10周年を迎えた。けん玉は長い間、子供たちの格好の遊び道具だったが、発足当時はプラスチックのおもちゃに押されて、ほとんどすたれかけいた。しかし協会が結成されたことで再び注目を浴び、特に先生の指導を通して小・中学校の授業やクラブ活動に定着している。同協会の支部になっている小・中学校は現在約600校。ことし五月には、念願の第1回全日本ジュニアけん玉選手権大会も開かれた。
 「私自身、あきっぽい性格で、夢中になるものが三年周期で自然に変わるんです。その私が十年間もけん玉に縛られ、自分でも不思議ですね。子供のころ、“火の用心”と言って町内を回ったら褒められ、やめられなくなったような者ですよ・・・」
 けん玉の魅力はなんといっても手軽さ。ひざを使うので健康にもいいし、リハビリにも向いている。しかし、一般の人はまだおもちゃとしか見ていない。藤原さんらがルールを作り、けん玉は遊びからスポーツになった。
 「けん玉は難しい。だからコツを教える大人の指導者が必要。けん玉が盛んだった昭和初期の不況期や終戦直後には、失業者や復員兵など、子供たちと遊べる大人がいました。大人が忙しくなるとけん玉もすたれてしまったんですね」
 小柄。白髪。おだやかな物腰に時折、わんぱく小僧の面影がのぞく。「けん玉クラブに入るのは数学や理科の得意な子が多い。しかし、けん玉というとまだまだばかにされるという子がいます」。
“けん玉伝道師”の顔が曇った。
 本職は童話作家。三十四年に出版した「タロ・ジロは生きていた」は昨年、「南極物語」(藤原繕監督)と題して映画化された。その南極・昭和基地にも同協会の支部がある。
 「東京・深川の貧乏な家で生まれ、仲間と勝負してベーゴマやメンコを稼いだ。けん玉は高かったし、勝ち負けがないので仲間から奪えなかった」。そのけん玉を勝ち負けのスポーツにした。
 二人の息子さんは写真家として独立、妻の敏子さんと二人暮らし。暇があると野球やサッカーを見に行く。「最下位のチームを応援します」。夢は「文部大臣杯争奪全国小・中学校けん玉選手権大会を開くことだ」と、少年のように語る。61歳。東京都出身。田無市北原町。(現在の西東京市)
 

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