2013年2月10日日曜日

講演から4日後の新聞記事「タロ・ジロを再び一緒に」

藤原一生先生が、講演の中で船の科学博物館でのエピソードがありましたが、その内容が記事として出されたのは講演から4日後の11月7日でした。

読売新聞 1991年(平成3年)11月7日の記事は以下の通りです。

タロ・ジロを再び一緒に

2頭へのつのる、熱い思い

「宗谷」ーーー水辺からの報告:カラフト犬

 作家の藤原一生さん(67)(田無市)が、品川区の「船の科学館」に係留されている「宗谷」を訪ねたのは、十月末のことだ。
 一度だけ、「宗谷」の内部を見学したのが、昭和三十年代半ば。第四次南極観測隊が航海に出かける際だったから、ほぼ三十年ぶりの再訪になる。

「飛行甲板には、どうやって行くんですか」。案内役の同館職員、緋田(あけだ)武男さん(40)をせかせながら、甲板にでた藤原さんは「ここで犬たちを運動させたんですよ」と、声をあげた。
 昭和三十四年七月の発売すぐにベストセラーになった「タロ・ジロは生きていた」。その著者が、当時フリーのライターだった藤原さんである。
 タロとジロは、カラフト犬の兄弟だ。三十一年出発の第一次南極観測隊は、そりを引くカラフト犬を二十頭同行させた。
 昭和三十三年二月。「宗谷」でやってきた第二次隊は、悪天候に阻まれて越冬中止。西堀栄三郎隊長以下十一人の第一次越冬隊員も、飛行機で救出という事態となり、犬たちのうち十五頭が置き去りにされた。
 翌三十四年、「宗谷」は再び南極へ。一月十四日、無人の昭和基地にヘリコプターで向かった隊員が、氷雪の上で二頭の犬を見つける。タロとジロだった。
 日本を、世界を駆け巡ったニュース。藤原さんは当時、出版社に”南極探検”をまとめるようにいわれ、新聞記事を集めていたから、さっそく、タロ・ジロの物語の執筆にかかった。
 「四百字詰めで二百枚。それに隊員から写真を百枚借りて本にしました」
 ジロは三十五年七月、病のため南極で死ぬ。三十六年四月、遺体はタロと一緒に帰国した。タロは北海道大学に引き取られ、四十五年八月、老衰で死亡。十五歳だった。
 兄弟は、はく製にされ、タロは北大、ジロは上野の国立科学博物館に保存されている。別れ別れ。藤原さんには、それがたまらなくつらい。
 「あれほど日本人を元気づけたタロ・ジロ。なぜ一緒にしてられないのか」
 藤原さんは、伝統のある「けん玉」を広めようと、五十年五月、「日本けん玉協会」を設立した。隊員の仲立ちがきっかけで、十四年前から越冬隊に「けん玉」を送る活動も続けている。
 しかし、タロ・ジロへの募る思いを抑えきれず、五十八年、兄弟を一つにと新聞に投書。それをきっかけに、「タロとジロをいっしょにさせる会」が出来た。
 「タロとジロを「宗谷」に展示したらどうだろう。それが無理なら、どこかに南極博物館を作って、一緒にしてやりたい」。口調は次第に熱を帯びる。歴代の文部大臣に提出した博物館建設の要望書には、合計二万六千人もの署名が添えられている。

ーーーーーーーーーーーー
以上が記事です。
 平成6年2月に藤原一生先生は亡くなっており、タロとジロの再開は平成10年に実現しています。今は別々の場所に戻っているようです。

 藤原先生の願いは「タロとジロをいっしょにさせる会」に引き継がれて再会を果たしたのでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿