2013年3月15日金曜日

小冊子(けん玉人生の解剖)を作成中(序文)

1991年の藤原一生先生の特別講演会をアップしてきましたが、これを1冊の小冊子に再編集しているところです。
序文を再編集して、以下のように書いてみました。

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本書は、日本けん玉協会会長で、映画「南極物語」の原作者でもある藤原一生(ふじわらいっせい)先生が、約21年前、私が在籍する専門学校で行ってくださった特別講演、「人生の解剖」を書き起こしたものです。
藤 原先生は、唯一人で日本けん玉協会を創立され、子供の遊びだったけん玉をスポーツとして機能させる全国共通のルール作りの先頭に立ち、ご自宅を協会の事務 所にして、この競技を切り開かれた第一人者です。小学生の全国大会、野球でいう甲子園のような大会を厚生省の認可の元で行いたい!という夢を、もの凄い情 熱で推進し、実現もされました。

私と先生との出会いは、「けん玉」との出会いから始まります。
高校の物理の先生から「吉本君、物理が好きならけん玉をしてみたらどうか?」と勧められ、近所のおもちゃ屋さんで買って始めた遊びでした。
24歳 で専門学校の社会医学技術学院の夜間部に入学した折、クラスの仲間内でけん玉が流行り、それが発展して課外活動の一つとして「けん玉倶楽部」を創設するこ ととなり、成り行きで部長に収まりました。文中で、佐藤君、吉本君と言われている箇所があります。佐藤君が副部長で、事実上のリーダーでした。学校の文化 祭(ふくろう祭)で藤原先生に講演していただくといのも、佐藤くんの提案でした。『徹子の部屋など』などテレビにも出演し忙しく過ごされている毎日、無理 だろうと思いながらご自宅にお願いに行き、即答で快諾してくださったのを、思い出します。

医療に携わる学生向けに「人生の解剖」と題した講演は、藤原先生にとっても特別だったものだったかもしれません。
深川のスラムで、アル中の親に置き去りにされ、妹も失った少年が教会の牧師に救われて成人し、出征し、最前線で弾も当たらず無事復員することができたという お話。「死んでもいい、名もない、誰も待ってない」自分が何故生かされているかという先生の問いかけ、「生きている間は奉仕」という決意と、その思いに裏 打ちされたけん玉普及にかける情熱を知りました。「けん玉って、すばらしい!」と思えた会でした。
そこから、生かされているものとして自分も奉仕していこう、けん玉を医療に活かす道を探ろうという目的が、私にも生まれたのです。
不幸な境遇の中にあって、さらに戦争を体験して、どれほど平和を望んだことでしょうか。藤原先生がよく言われた「けん玉のひびきは、平和のひびき!」という言葉は、他の誰よりも実感のこもったものでした。

藤原一生先生は、1994年(平成6年)227日に亡くなられました。すでに18年が経とうとしています。
この講演を再び文章として興そうと思ったきっかけは、2012年 5月に日本けん玉協会主催の普及員講師取得のための講習会が行われた後の、懇親会でした。その席で、『世界へのけん玉伝承』という藤原先生の願いを引き継 がれた矢野関西総支部長から、8月に大阪で行なう世界けん玉選手権大会を「藤原一生杯」とする予定との話をうかがったことにあります。

「藤原一生杯」を応援するため、私に何ができるだろうか?と思った時、18年の歳月を経て藤原先生を知らない世代がけん玉をする時代になり、インターネットで「藤原一生」を検索してもあまり情報が得られない事実を知りました。そこで、「人生の解剖」をご紹介することで、藤原一生先生を知っていただこうと考えたのです。

録画ビデオを文章におこそうと思い立った時、偶然にも藤原先生の奥様から私の家族への励ましのメッセージをいただきました。ビデオを文章化すること、インターネットなどで公表することの許可を、お礼とともに電話で申し出たところ、快く受け入れていただき、発刊の運びとなりました。
講演は話し言葉であり、極力、そのままの言葉をのせましたが、わかりにくい箇所もあり、表現を変えた箇所がありますことをご了承ください。

「けん玉のひびきは、平和のひびき!」私はこの言葉を心に刻んで、平和は家庭から、親子三世代が共に支え合い、けん玉を通して、平和への輪が広がることを願う次第です。
 ご協力いただいた皆さんには、このような冊子ができたことを感謝申し上げます。特に、藤原一生先生と敏子夫人およびご家族に感謝申し上げます。

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